ホーム > インタビュー&レポート > 「言葉というのは、言葉だけではなく、 言葉から繋がる人生そのもの」 『ダニーと紺碧の海』を手掛ける演出家、 藤田俊太郎インタビュー
――『ダニーと紺碧の海』は、劇作家・脚本家のジョン・パトリック・シャンリィの作品です。彼は、大ヒット映画『月の輝く夜に』の脚本でアカデミー賞を取り、戯曲『ダウトー疑いをめぐる寓話』ではピュリツアー賞などを受賞した実力派ですね。藤田さんと作品との出会いは?
僕は蜷川幸雄さんの演出助手を10年間務める前に、俳優としてニナガワ・スタジオに1年間在籍していました。自分で戯曲を見つけて、それを稽古して、蜷川さんの前で見せることが俳優としてのレッスンの大きな柱だったんです。『ダニーと紺碧の海』は、そんな中で出会った作品です。俳優として、こんなセリフを言いたいよなと思えた作品でしたね。でもこの台本は深みがありすぎて、俳優をやり始めたばかりの僕としては、その深みにはたどり着けなかった。非常に心を惹かれた好きな作品ですけれど、できないよなと思いながらも、20代前半で出会ったキラめく戯曲として僕の中にずっと存在していました。俳優を辞めて、演出助手の仕事をするようになり、今はミュージカルを中心に演出をしていますけれど、今、ストレートプレイだったらこの作品を演出したいと改めて思いました。
――今だったら演出できるとご自身でも思われたのでしょうか。
そうですね。こういう作品に挑戦できるかということは、演出家としての資質を問われることだと思います。確信があったというよりは、演出家としてきちんと通るべき道ではないかと。あらゆることって繋がっていると思うんですよ。俳優のときに出会った戯曲、演じたかった役、歌いたかった歌は、巡り巡って違う形としてやってくる。少し時間を置いて、色んな出会いや人生の断片が積み重なっていく。自分にとって俳優やスタッフとの劇的な出会いはたくさんあるわけですよね。その中で、『ダニーと紺碧の海』を通過しないと演出家として先には行けないなと思ったんです。そして今回、俳優の松岡昌宏さん、土井ケイトさんが演じて下さることになり、これはもうできるなと確信しました。
――松岡昌宏さんは、けんかっ早いけれど繊細な青年・ダニーを、土井ケイトさんは過去に犯した罪から立ち直れないロバータを演じます。二人は惹かれ合いながらも、激しく罵りあったり、暴力的になったりと精神的にも肉体的にも大変な役だと思いますが、まさにピッタリのキャスティングだと思いました。
そうです。だから、演出をする僕次第ですよね(笑)。リアルな状況やセリフの中で、ロバータという海のような神秘的なものを通して、ダニーは、一瞬、飛躍しなければいけない。恋愛が成就しかける。恋人のふりをしていた男女が、まるで、一瞬、僕らの願望のように恋に落ちる。その恋に落ちる瞬間は、ものすごく飛躍していると思います。
――ダニーとロバータは、初めはぎこちないものの、会話をするうちにどんどん親密になり、関係は急展開します。
物語の中で、暴力的な描写もそうですけど、リアルな積み重ねでいったら、起きないような飛躍が起きるわけです。そのリアルな状況で飛躍するには、俳優としての力と人間力がないとできない。松岡さんは非常にたくさんの役を演じていらっしゃる。最近、テレビドラマ『家政夫のミタゾノ』で見せた女装も絶品でしたよね。出演するバラエティ番組も本当に面白いですし、TOKIOでドラマーとして、ミュージシャンとしても屹立している。ストレートプレイの『ロスト・イン・ヨンカーズ』では、非常にリアルな芝居を見せて下さいましたが、リアルさとそこからの飛躍との行き来ができる方です。それができる方じゃないとこの芝居は難しいんです。
――ロバータ役の土井ケイトさんはいかがでしょうか。
彼女は、蜷川さん主宰の「さいたまネクストシアター」の旗揚げからのメンバーです。ずっと蜷川さんの現場にいた人。ネクストシアターの『ハムレット』で見せた艶やかで母性的でもあるガートルード役をはじめ、『海辺のカフカ』の着ぐるみを着た猫のミミや、娼婦役を演じて客席をフッ飛ばしていましたからね。ニューヨークへ留学もして「アクターズスタジオ」で演技を学び、演技の構造をきちんと自分で作れる人です。それこそが、蜷川さんが演技者に必要だと言っていたことなんです。その上、リアルな芝居もできる。飛躍とリアルが追求できる役者です。それに、身長180cmの松岡さんに対して、彼女も背が高いから見劣りしない。舞台で松岡さんの胸ぐらをつかまないといけないんですから(笑)。ロバータを美しく猥雑に演じてくれると思っています。俳優はお二人とも素晴らしいんです。だから、演出次第なんですよ。失敗したら、僕のせいなんです(笑)。きちんと彼らを導き出せるかどうかですよね。
――今のところ決まっている演出プランをお聞かせ下さい。
1場から3場まであるのですが、セットは同じにします。セットの見せ方や、光の当て方などを変えることで、セットの存在を変化させようと思って、そのセットの移動を俳優の二人にお願いしようと思います。二人が、自分たちの居場所やそこから出て行けないという状況を自分たちで作る。そして、水を使います。『ダニーと紺碧の海』というタイトル通り、そのまますぎるんですけれど(笑)。この作品は海を連想させる何かがあるべきで、それは水の使い方だと思うんです。普通に使うのではなく、斬新に見せたいと思っています。日常に溢れる水でありながら、それが飛躍して神秘的な海になりえるように、水を使いたい。
先日、ニューヨークに行き、ワールドトレードセンターの跡地にできた「9.11メモリアルパーク」にある滝のモニュメントを訪れたんです。あそこは、絶え間なく水が循環しています。それを見たときに、「テロ後、時代は変わっても、こういうふうに息を呑む風景にまた、出会えるんだ」としみじみ思いました。それと、僕らが生きているリアルなものが結びつけば、この戯曲は出来るのではないかと。セットや枠にとらわれるのではなく、松岡さんと土井さんが、今、どういうふうに人生を生きていて、俳優としてここにいるのか。それが大事です。舞台は、シェイクスピアの『ハムレット』が言う「言葉、言葉、言葉」を象徴するかのような、脚本家シャンリィによる生々しいリアルなセリフの連続です。この作品は「演劇は言葉の芸術だ」ということが突き詰められている。ですから、俳優の二人がリアルさを追求し、表現できるための舞台セットであり、水でありたいと思っています。
――そのモニュメントの滝のように、藤田さんの中で、色々なことが循環しているんですね。
作品に再び、出会えるかどうかだと思うんですよ。これって、出会うタイミングだとも思っていて。今、ここに居ることも含めて、出会いはいろんな積み重ねで起こっています。僕は俳優をやり始めたときから、この戯曲が大好きなんです。でも、演出するのに10年以上もかかっている。でもそれは、決して無駄ではない。俳優としてこの戯曲に出会い、素晴らしい俳優やプロデューサー、スタッフとも出会えた。幸運にも演劇を自分で作れる状況になったとき、演出家として、少しだけ、演出というものを分かり始めた。ほんの1ミリですが。1ミリ分かって一歩進み始めたときに、本当にいい脚本は10年経って出会ったら、全然違う光が当たっていることが分かったんです。
――どんな光でしょう。
僕、海が好きだったんです。でも、今はそうではない。海水浴をしていたときは、楽しくて高揚する。海を泳いでいるときは俳優なんです。海から上がって砂浜を歩く。そのときに、海にはこんなに表情があるんだと気付くんですよね。朝の海、昼の海、激しい夏の海、夕方の海、真っ暗な海…。僕は今のほうが、海に入っているときより、海をより深く知っているんです。それが俳優と演出家の違い、あるいは適性の違いだと思うんですよ。僕は海に入らなくていいんです。海に入らないけど、より生々しく、海を実感している。だから、海に入っている人の言葉やリアルが欲しいんですよ。それを演出したい。僕、変なことを言っていますかね(笑)?
――いえ、おっしゃる意味はすごくよく分かります。素敵なたとえですね。
僕は、演出をやりすぎてしまうんですけれど、最近の作品ではそぎ落としていくようにしています。そぎ落とすと、より俳優にフォーカスが当たる。俳優の言葉や生々しさに焦点が合う。それがこの『ダニーと紺碧の海』が求めている正しさなんです。
――物語自体にはどんな光が当たっていますか。
物語自体はすごく単純な話ですよね。何故、女性と男性はあんなにぶつかるんでしょう。
――私にも分からないです(笑)。ダニーとロバータの関係は火のようでもあり、海のようでもありますね。
相反するものが存在していて、何故、こんなにぶつかり合い、惹かれ合うのか。こんなにあっさり別れ、希望にあふれ、また、希望がないんでしょう。希望と絶望、生と死、恋愛と別れ、青春と少しの老い。明日を生きることは老いていくことではないですか。生を受けた時点で老いていく。そういう生々しさ、相反するものが縦横無尽にちりばめられている作品です。どこを切り取っても美しいセリフというわけではないですが、ここにあるのは、他者と関わるというリアルです。「人は一人だけど、一人では生きていけない」と僕らが毎日感じていることは、演劇でしかできない表現です。演劇は他者がいないと成立しないんですから。
――藤田さんは「演劇を渇望しているのか。僕は世界と向き合えているのか」と日々、自問自答していらっしゃるそうですね。
それしかないですよね。僕は稽古場と劇場しか居場所がないんです。ほかに何ができるかといえば、何もできないんです。1本、1本、これが最後だというつもりで作っています。それぐらいの気持ちじゃないと、とても演出なんてできない。渇望していなかったらできないんです。お客さんは見抜きますからね。お客さんは素晴らしいんです。渇望していない表現は見抜かれる。
――渇望することは藤田さんだけではなく、役者にも求めていらっしゃることなのでしょうか。
僕は求めないです。台本が求めているんです。そう言いますね。やらないと、台本が描いている言葉や深みにたどり着けないので。知りたいですね、その深みを。深い海とは何でしょう。海から生まれてきて、海に帰っていくのか。その海は夏の気持ちいい海なのか。それとも残酷にも僕らをさらってしまう海なのか。両方の顔を併せ持っている。そういう神秘的なメタファーが一貫している作品です。ギリシャ悲劇とも重なりますよね。
――先ほど藤田さんがおっしゃっていました、ハムレットの「言葉、言葉、言葉」は、蜷川さんがよく口にされていたと伺っています。藤田さん自身もそれを日々、実感されていますか。
10年間、蜷川さんのそばにいさせていただいて、蜷川さんがこだわっていたことです。「演劇は言葉の芸術だ」というのが、ずっと気になっています。言葉で他者と格闘し、言葉によって出会う。それがどんなに大変で、切実なことか。蜷川さんは「言葉をたてて、表現を一貫させる」とおっしゃっていましたが、最後にそれを捨てましたからね。あっさりと。それではなかった。今まで積み重ねてきた「たてれば伝わる」と言ったことを、「いや、たてない。もっと深いんだ」と。最後に「そこにいて、深みにたどり着いているのか。それだけなんだ」と言い切られた。でも、それこそが言葉をきちんと描き、演劇を描くことではないかと思いました。言葉というのは、言葉だけではなく、言葉から繋がる人生そのものなんだと。ハムレットの「言葉、言葉、言葉」は僕自身も感じていますが、最も尊敬する師匠の言葉です。何も変わらず、いつも蜷川さんは僕の中に存在し続けています。
取材・文 米満ゆうこ
(2017年3月14日更新)
Pコード:455-416
※発売初日はインターネットおよび特別電話[TEL]0570(02)9500(10:00~23:59)、通常電話[TEL]0570(02)9999にて予約受付。
※店頭での直接販売および[TEL]0570(02)9944での予約受付はなし。
※販売期間中は1人1公演4枚まで。
▼5月27日(土)・28日(日) 14:00
兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール
全席指定-7500円
[作]ジョン・パトリック・シャンリィ
[翻訳]鈴木小百合
[演出]藤田俊太郎
[出演]松岡昌宏/土井ケイト
※未就学児童は入場不可。
[問]芸術文化センターチケットオフィス
[TEL]0798-68-0255